鎌倉幕府と深大寺元三大師像

加えて『縁起』には、慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)大僧正の尊像が祀られたと記されています。
良源大僧正は正月三日の入滅により、元月三日の大師さま、通称「元三大師(がんざんだいし)」として有名ですが、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多の功績を上げられたので、比叡山中興の祖、また「おみくじ」を初めて作られたことから「おみくじの祖」としても崇められています。

生前、人並みはずれた霊力により数々の奇跡を起したので、やがて比叡全山に種々の伝承をもつ大師像が祀られるようになりました。通常、等身大かそれ以下で造られることが多い大師像にあって、深大寺の元三大師像は、なんと坐像でありながら2メートル近い巨像であり、僧形の古像では日本最大の大きさです。見開いた目や頬骨が張った輪郭、筋張った首などの造形表現など極めて写実的であり、鎌倉時代の力強い作風の特徴を備え、見る者をして驚愕せしむ迫力があります。あわせて『縁起』には「源家の高運を祈り、護国保民の要法怠る事なし」と、深大寺が源家の尊崇を集めていたとあります。この点について、最近、史料調査が進展し、深大寺には鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の甥である範円(はんえん)や源昭(げんしょう)、九代将軍の子である守慧(しゅけい)が深大寺別当や住僧であったことがほぼ確実視されています。このことは、『縁起』の内容が客観的な史料から裏付けられるのと同時に、鎌倉幕府が中世の深大寺の隆盛、特に巨大異形の元三大師像の造像背景に介在していた可能性を抱かせるのです。

元三大師像の造像について『縁起』には、「武蔵深大寺は代々の勅願所なり、此の影像を安置し、国運を守り、東国の群生を化益し給わん」とあります。元三大師像を安置し、国運を守るというのです。これは、かの「元寇」との関連を想起させるのです。
すなわち蒙古襲来の際、鎌倉幕府は比叡山をはじめ全国の主要寺社に異国調伏の祈祷を命じました。深大寺元三大師像の巨大さは尋常ではありません。この尊像が異形中の異形であるのは、幕府の命を受け、異国調伏のために国家規模レベルで造像されたとしか考えられない、とまでいわれています。これまで秘仏であるがゆえに、深大寺元三大師像の研究は進展していませんでした。しかし古来の寺伝とは違う新たな視点として、近年深大寺の大師像が捉え直される機運があるのです。

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