寺宝・建造物

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寺宝・建造物

境内案内地図

境内案内地図 開山堂 元三大師堂 本堂 保存棟 鐘楼 山門 釈迦堂 延命観音 深沙堂

開山堂

昭和58年の開創1250年大法会記念事業として新築された奈良時代様式の堂宇です。本尊に薬師如来脇侍に弥勒菩薩千手観音を安置、開基満功上人、天台宗一祖惠亮和尚の尊像を祀っています。

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元三大師堂

慈恵大師(元三大師)像を安置しているのが、この大師堂です。江戸時代の大師堂は、本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので、本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。被災直後の慶応3年(1867)に、本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。
大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間は三間、側面四面、周囲に縁をめぐらしています。

内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に、火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳があるところが、もとの厨子のあった位置です。昭和49年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。

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延命観音

昭和41年秋田県象潟港工事の際、海底の大石を引き上げたところ、慈覚大師自刻の延命観音が刻まれてあり、縁あって深大寺に奉安されました。

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本堂

江戸時代の本堂が幕末の火災で焼失した後、本尊の阿弥陀如来像は仮に、再建した庫裡に安置されていましたが、大正8年に今の本堂が完成しました。

旧本堂は寄棟造りの茅葺き屋根でしたが、再建本堂は入母屋造りの棧瓦葺きに変わりました。正面十間、側面八間(一間は1.8m)という規模は、昔より少し大きくなっているようです。外側を雨戸付きの硝子窓とし、腰を下見板張りとするやり方は昔から変わっていませんが、正面中央の上り口だけは、禅宗様の棧唐戸の引き戸になっています。

旧本堂の正面中央には、入母屋破風の向拝が付いていましたが、今の向拝は唐破風です。梁の木鼻には獅子・象の彫りもの正面の三段の虹梁の間には龍・鷺、破風板の下には鳳凰の彫り物があって、江戸時代らしさが表現されています。

平成15年には大屋根大改修工事をおこない、瓦屋根より銅板葺本瓦棒葺きになり本堂外観を一新し、偉容をほこっています。

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保存棟

本堂の東側にあるのが現在は使用されていない庫裡で、慶応元年(1865)の火災で焼失した後、慶応3年にほぼ元通り再建されたものです。北側の茅葺きの居室棟、南側の茅葺きの台所棟がつながったものでしたが、昭和49年(1974)、鉄筋コンクリート造りの客殿を建てるために北側の居室棟が撤去されたので、今残っているのが台所棟だけですが、せがい造りの軒、茅葺きがそのまま江戸時代当時の雰囲気を残しています。

土間の西側に付いている唐破風の車寄せ玄関のようなものは、もとは、撤去された居室棟の西側、仏間として使われていた室の前に付いていたものです。これは大正11年攝政宮が来駕されるために建てられました。

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鐘楼

文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、今の大師堂裏の高台にありましたが、幕末の大火で消失し、その後、明治3年(1870)に、山門を入った右手に位置を移して再建されたのが今の鐘楼です。基壇の上に、内転びの四本柱を立て、入母屋茅葺きの屋根を載せていましたが、昭和29年(1954)の銅板葺きに改められました。

柱間には若葉の彫り物を施した虹梁を架し、木鼻として象・獅子を付け、虹梁の上には、蟇股をのせます。柱上には台輪を置いて、その木鼻を禅宗様にし、台輪上に組物をのせます。軒は二軒で、垂木は角。江戸以来の鐘楼の普通の造りです。

平成13年に新鋳された平成新鐘と呼ばれる梵鐘を釣り、基壇上には反響用の瓶を埋め、多孔の鉄板を蓋としてかぶせてあります。

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釈迦堂

白鳳仏を安置する堂宇として昭和51年に新築されたのが、この釈迦堂で、山門を入って左手の奥にあります。大切な仏像を火災、盗難から守るため鉄筋コンクリート造りとし、湿気の多い土地であることを考慮して高床式に作られています。四本の円柱に支えられた屋根は方形造り、銅板葺きと言われるもので、頂部に露盤・宝珠をすえています。

白鳳仏は正面の鉄の戸を開けると、大きなガラスを通して拝むことができます。内部が反射で見にくくならないよう、正面外側にはブラインドの役をするアルミ製格子が立てられており、そこに表した釈迦を意味する梵字が、中心的意匠になって、堂の正面をひきたてています。

内部には春日厨子が置かれ作者は吉田包春。昭和に入り宮内省より正倉院御物の写しを命ぜられた工芸界の第一人者として天下に名をとどろかせました。中宮寺、薬師寺にも厨子が残されています。

白鳳仏が大正期、旧国宝の指定となった、これに相応しい厨子と当時、安田靫彦画伯など包春を指名し奉献されました。

また内部には重文の梵鐘も安置されています。

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山門

参道より一段高い寺の敷地の入口に立つ正門で、正面には「浮岳山」の山号額を掲げています。慶応元年(1865)の火災の際にも常香桜とともに被災をまぬがれた建物で、現在、山内で一番古い建物です。屋根裏にあった棟札には、元禄8年(1695)に1,000人の寄進者・人足によって、このあたりの地形と山門の普請が行われた。と記されています。

東京に残っている江戸時代の建築の中でも、意匠的に特にすぐれたものの1つとされています。

形式は、主柱を3.6m間隔に立てて扉を付け、後方に細い控え柱を立てた薬医門とよばれるものです。柱、梁、組物などの材はケヤキ。屋根は切妻の茅葺き。屋根裏板や垂木はスギで造られています。ケヤキ部分をベンガラで赤色に、スギ部分を黒で塗った、山内唯一の彩色された建物です。

江戸時代の深大寺の建物はほとんどすべて茅葺きでしたが、今では旧庫裡と、この山門だけになってしまいました。ケヤキは昔、武蔵野では屋敷林として植えられ、建築用材として好んで使われていたものです。

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深沙堂

本堂などのある寺地の中心より西に一町(約120m)ほど離れたところに深沙堂があります。昭和43年(1968)に再建されたもので、正面二間半、奥行き三間半(一間は約1.8m)、入母屋造り銅板葺き、妻入り。正面に向拝があります。また、堂の背後には、この地の水源であり、深大寺の発祥にかかわる泉があります。

旧堂は大師堂に匹敵する大きさがあり、寄棟茅葺きの屋根で、正面に切妻屋根の向拝が付いて、深沙大王祀、深沙大王社と呼ばれていましたが、明治元年(1868)の神仏分離令によって取り壊されてしまいました。同じ時に、堂前にあった鳥居も取り払われ、今はその跡だけが残っています。

現在の深沙堂に安置されている宮殿(お堂の形をした厨子)は旧深沙堂のもので、この宮殿内に、スギの白木の箱形厨子があり、この内に秘仏深沙大王像が安置されています。

深大寺の寺号ももちろん、これに由来し、今、深沙堂に祀られる像は、高さ57cmほど、どくろの胸飾りをつけ、象皮の袴をはいて忿怒の形相すさまじい鎌倉時代の優作ですが、秘仏として、長いあいだ拝されたことがなく、今も厳重な秘仏であることに変わりはありません。

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